福知山線のATS

地上設備

  • 拠点P型ATS-P形を設置
    尼崎事故以前、福知山線にはATS-SW形のみ設置されていた。尼崎事故ののち、福知山線の尼崎〜新三田間にはATS-SW形に加え、ATS-P形拠点P型として設置された。
    全線P型拠点P型のどちらが設置されたかを巡って情報の混乱が見られるが、少なくとも2005(平成17)年6月19日の運転再開時に於いては拠点P型として設置され、数ヶ月間に亘って運用されていることが確認されている。その後も全線P型化されたという情報は無く、現在も拠点P型として運用されているものと思われる。
福知山線、及び直通線区のATS-P形設置状況
線区区間SW形P形 (全線Por拠点P/運用開始月)備考
福知山線福知山〜篠山口×単線
篠山口〜新三田× (平成22年度末頃までに設置予定)
新三田〜尼崎○ (拠点P型/平17- 6)
東海道本線尼崎〜大阪・京都方面○ (拠点P型/平10-10〜平14-10)
JR東西線尼崎〜京橋?● (全線P型/平 9- 3)
片町線京橋〜松井山手○ (拠点P型/平 9- 3)
松井山手〜京田辺○ (拠点P型/平14- 3)単線
京田辺〜木津×単線
  • 福知山線速度照査
    • 曲線速照
      尼崎事故以前、福知山線にはATS-SW形が設置されていたが、曲線での速度照査は行なわれていなかった。事故ののち、事故現場の曲線には速度照査用のATS-SW形地上子が設置され、曲線での速度照査が行なわれるようになった。また、ATS-P形による曲線速照も開始された。
    • 分岐器速照
      尼崎事故以前、福知山線ではATS-SW形による分岐器での速度照査を行なっていたが、その設置数は僅か1箇所のみ(尼崎駅構内)であった。尼崎事故の事故列車は宝塚駅2番線へ入線する際、構内の制限速度40km/hの分岐器へ60km/h以上で進入したことが判明している(この際は別の原因により緊急停止)。
      事故ののち、ATS-SW形による分岐器速照地点が増設され、またATS-P形による分岐器速照も開始された。
福知山線速度照査設備設置状況
日付(公表日)曲線分岐器終端部信号機備考
SWP形SWP形SWP形SWP形
尼崎事故以前合計01
分別0010
平17.11.01合計
備考JR宝塚線P形速照(曲線+分岐器)計41箇所
平17.12.01合計
分別12
ミス1
備考SW分岐器/JR宝塚線11、福知山線1(ミス1)
現在合計SW13ヶ(曲線1/分岐12) P形41ヶ(曲線+分岐)推定最低設置数
 

車上装置

183-800_kansai_01.jpg  ktr8000_kansai_01.jpg
左は183系800番代、右はKTR8000系/画像著作権 【関西鉄道局】

  • JR西日本
    尼崎事故ののち、福知山線の快速列車や普通列車などはATS-P2搭載車に置き換えられたが、全ての列車にATS-P形の車上装置が搭載されている訳ではない。183系800番代などの特急型車輌や貨物列車の多くは、ATS-SW形やATS-SF形しか搭載していない。
  • 北近畿タンゴ鉄道
    従来KTR001形(ATS-SW形のみ搭載)によって運行されていたタンゴエクスプローラーは、現在KTR8000形(ATS-P形対応車)によって運行されている。
 

福知山線の昨今

mayu35_aino_01.jpg mayu35_739re_01.jpg mayu35_takedao_01.jpg
左/1980年1月 相野駅: 腕木式信号機がまだ現役の頃。17年後には地下鉄直通路線へ変貌する。
中/1985年2月 尼崎駅: 東海道線を跨ぐ旧型客車編成。
右/1985年3月 武田尾: 1986年までは武庫川渓谷沿いの旧線を走っていた。
画像著作権(3枚共) 【福知山客車研究会】

福知山線の近代化

  • 遅れた近代化と険しい地形
    福知山線が近代化を遂げたのは比較的最近のことで、大都市圏の至近距離であるにも関わらず、1970年代末までは殆んど全線が単線非電化であった。
    近代化が遅れた最大の要因は、宝塚以北の険しい地形であった。近代化以前、福知山線の生瀬〜道場間は武庫川渓谷に沿って走っていたが複線化は困難な地形であった。そのためこの区間を新線に切替えることになり、生瀬〜道場間を貫く長いトンネルの掘削を伴なう大規模な工事が行われることとなった。
  • 急速な近代化
    近代化以前の福知山線は旧式のディーゼルカーや客車列車が運行されていた。1981年には尼崎〜宝塚間の複線電化が完了したが、一定の需要が見込まれた筈にも拘らず当時の国鉄はさほど関心を示さず、全線電化前年の1985年(207系登場の僅か6年前)までは旧型客車列車が運行されているような有様だった。
    国鉄末期の1986年、生瀬〜道場間が新線に切替えられ、新三田までが複線電化(電化は全線)された。風光明媚な車窓を失なうのと引き換えに、新三田までの利便性は飛躍的に向上した。
    さらにJR化後の1988年、JR西日本福知山線の大阪〜篠山口間にJR宝塚線という愛称を付け、宝塚以北の乗客需要の開拓に乗り出した。運行本数も増加し、交通便利となった三田市は大阪近郊のベッドタウンとして急速に発展を遂げることとなった。 1993年には福知山線に最新鋭の207系が投入され、更に1997年にはJR東西線との直通運転が開始された。
    福知山線の尼崎〜新三田間は、旧型客車が走る非電化の閑散路線から最新のVVVF制御ステンレス車が走る地下鉄直通の都市型通勤路線へ、僅か十数年の間に劇的な変貌を遂げたのである。

福知山線と阪急宝塚線との対決

  • JR西日本の変貌
    1970年代末までの非電化時代、福知山線は阪急宝塚線の敵ではなかった。しかし民営化以降、JR西日本は車内サービス向上とスピードアップを前面に掲げ、私鉄からの乗客奪還を本格化させた。東海道・山陽地区では新快速車輌をシートの良い221系に置き換え、従来からの「汚い国鉄車」というイメージを完全に払拭した。
    一方で、JR西日本は国鉄から引き継いだ遺産を有効活用した。街中を縫う様に建設された私鉄路線と異なり、旧国鉄の路線は高規格であった。JR西日本は容易にスピードアップを果たし、乗客は大量に私鉄路線からJR西日本へ逸走した。その流出ぶりは一部で「私鉄会社がもうやめてと悲鳴を上げる程」であったと伝えられている。
  • 福知山線への成功手法の導入
    新快速の成功事例は福知山線にも持ち込まれた。片福連絡線(後のJR東西線)の開通まで4年あるにも拘らず、1993(平成5)年には最新鋭の207系が投入された。また、亜幹線である福知山線の良好な線形を生かしスピードアップが実施された。
    阪急は1995年には宝塚線に特急を導入したが、カーブが多い線形であることから福知山線への対抗策と成り得ず、2003年には宝塚発着の特急を廃止し中間駅の利便性を重視する方針への転換を余儀なくされた。 良好な線形とスピードアップの追求は阪急宝塚線に対する福知山線の優位性をもたらした。一方でこれらは、尼崎事故を引き起こす要因となったと見られている。
 

burner_blue.gifburner_right.gif
このページは、ATS-Wi 内のコンテンツです。利用規約についてはこちらをご覧下さい。
アクセス/昨日1:今日1:総計7471

banner_005_ama001_200&40.gif

Last-modified: 2006-03-29 (水) (6601d)