制動地点の考察
ここでは、尼崎事故の事故列車が何処でブレーキを掛ければ脱線転覆を免れ得たかを推測します。
目次
常用ブレーキは何処で掛ければ制限速度を守れた? †
常用ブレーキは何処で掛ければ制限速度を守れた?
常用ブレーキを用い制限速度を守るための制動開始点 †
- まずは列車が事故現場の制限速度70km/sを守って運行するための制動開始点(ブレーキポイント)を求めてみます。
算出方法 †
- どうやって計算するか?
速度×時間のグラフの面積=走行距離ですので、台形の面積を求める要領で簡単な計算式を作り、これをもとに算出してみました。本来なら時間軸と距離軸のグラフに表わした減速ラインは曲線となりますが、複雑な計算は出来ませんので、減速度を一定(グラフに表わすと直線になる)とした簡易算出としました。
- 207系のブレーキの性能は?
何処でブレーキを掛ければ間に合ったかを問うには、まず事故車輌である207系のブレーキ性能を知る必要があります。ブレーキ性能は、一定時間内にどれだけ速度を落としたかを示す減速度で表わされます。鉄道車両の場合、一般的に1秒間に何km減速したかを示す『km/h/s』として表わします。数値が大きいほどブレーキ力は大きくなります。
207系の減速度は、常用ブレーキは3.5km/h/s、非常ブレーキが4.2km/h/sとなっています(因みにこの減速性能は321系と同一です)。減速度は速度域によって変化しますが(同じ制動力なら高速域での減速度は低く、低速域では高くなる筈)、ここでは常用ブレーキは3.5km/h/s、非常ブレーキは4.2km/h/sという値を元に計算を試みます。
- 空走距離の考慮
ブレーキは掛けてすぐに最大の制動力を発揮出来る訳ではありません。ブレーキハンドルを操作すると、各車両に搭載されたブレーキ弁が開かれ、空気溜め(エアータンク)の高圧圧縮空気がブレーキ管を通して台車に設けられたブレーキシリンダーに送られます。踏面ブレーキであればブレーキシューが空気圧で車輪に押付けられ、またディスクブレーキであればブレーキパッドが空気圧でディスクローターに押付けられることによりブレーキが掛かります。この間、幾ばくかのタイムラグが発生することになります。
207系は常用ブレーキを動作された場合、まずは電気ブレーキである回生ブレーキが働き、これが使用できない場合(回生失効時)や低速域まで減速した後は空気ブレーキが働きます。非常ブレーキの場合は最初から空気ブレーキが働きます。207系の空気ブレーキは応答性の高い方式のものを装備しており、正常に動作する場合はブレーキが掛かるまでのタイムラグが最も短かい部類に属します。
空走時間について、応答性の悪い自動空気ブレーキ(貨物列車など)列車では6秒、それ以外は2秒と定められているようですので、ここでは事故列車の空走時間を2秒として空走距離を算出します。但し、空走距離は気象条件によっても異なるようですので、雨が降っていなかった尼崎事故当日は幾らか空走距離が短かかった可能性はあります。
常磐線羽鳥駅踏切事故の実例との比較、空走2秒は妥当か?
2005(平成17)年4月26日(尼崎事故の翌日)にJR東日本の常磐線羽鳥駅構内で発生した踏切事故では、事故列車はブレーキ動作開始から1.5秒で制動力が最大に達した(4.8km/h/s)と推定されています。また、ブレーキ動作開始から1.5秒の間に速度が2km低下しており、空走時間となる1.5秒間でも平均で約1.3km/h/sの制動力を発揮していると推定されます。このことから、空走時間を2.0秒とし空走時間の制動力を0.0km/h/sする計算は、十分な余裕を含むものと推定されます。
算出結果 †
進入速度 | 最終速度 | 減速度 | 制動距離 | 制動地点 | 制動時間 |
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130.0km | (計算) | 70.0km | 3.5km/h/s | 548.5m | 2497.5m | 19.1秒 |
125.0km | 495.1m | 2444.1m | 17.7秒 |
120.0km | 443.7m | 2392.7m | 16.3秒 |
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備考 |
【進入速度】ブレーキ開始地点での速度 |
【最終速度】速度制限標識(70.0km)設置地点での速度 |
【減 速 度 】3.5km/h/s(1秒ごとに速度が時速3.5km/秒速0.972mずつ低下する) |
【制動距離】ブレーキ開始地点から速度制限標識までの距離、空走距離含む |
【制動地点】尼崎駅起点のブレーキ開始地点、事故調査報告書 経過報告に対応 |
【制動時間】ブレーキ開始速度から70.0kmまでに速度が下がるまでの減速時間、空走2秒含む |
何事もなく事故曲線を通過するためのブレーキポイントは何処か? †
- 120.0kmから70km/hまで常用ブレーキで減速するには何メートル必要か?
上記の表のとおり、207系では120km/hで走行中の時に、常用ブレーキを掛け始めてから70km/hまで減速するには443.7m(16.3秒)必要です。このうち2.0秒/66.7mは空走時間/距離で、実質的には残りの14.3秒/377.0mで減速する計算になります。
- 120.0kmから70km/hまで常用ブレーキで減速できるブレーキポイントは何処か?
速度制限開始地点は上り1949m地点ですので、その443.7m手前とは2392.7≒2393m地点となります。上り2393m地点とは何処でしょうか?
経過報告 付図9-1を見ると、名神高速道路跨線橋が上り1992m地点となっており、これは名神高速道路の中央分離帯の地点であると推定されます。ここから塚口駅方面へは東行きの名神高速道路が2車線があり、その手前に4車線の一般道路、そして更に手前に歩行者用の歩道橋があります。
航空写真から推測すると、歩道橋を除く立体交差(一般自動車道路)の北側は約2020mにあると思われ、これを元にすると2393m地点とは立体交差の373m手前であることになります。よって、次の結論が出ます。
『通常通り、常用ブレーキ(減速度3.5km/h/s)で時速120キロの列車を速度制限地点までに時速70キロへ減速するためには、名神高速道路との立体交差(一般自動車道路)の373m手前の地点でブレーキを掛け始める必要がある。』
非常ブレーキは何処で掛ければ間に合った? †
非常ブレーキは何処で掛ければ間に合った?
非常ブレーキを用い安全速度へ減速し得るための制動開始点 †
- 算出方法
走行距離の簡易算出式を用い、各速度に於いてブレーキ開始から90km/sまで減速するために必要な距離を算出し、その地点を求めました。下記のリストが計算結果です(脱線地点を架線柱42号柱のある上り1814m地点と仮定)。
惰行・曲線通過に伴なう自然減速、および勾配は考慮していませんが、ブレーキを掛け始めてからの空走距離は、空走時間を2秒として計算に入れてあります(常用ブレーキの計算と同様)。
算出結果 †
計算はこちらを参照 |
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最終速度 | 減速度 | 進入速度 | 制動時間 | 制動距離 | 制動地点 |
/h/s | 時速 | 座標/立体交差入口の何m手前か? |
90km/h | 4.2km | 130km | 11.6秒 | 363.2m | 2203.2m | 183.2m手前 |
125km | 10.4秒 | 318.3m | 2158.3m | 138.3m手前 |
120km | 9.1秒 | 275.0m | 2115.0m | 95.0m手前 |
115km | 8.0秒 | 233.4m | 2073.4m | 53.4m手前 |
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95km/h | 4.2km | 130km | 10.4秒 | 332.7m | 2172.7m | 152.7m手前 |
125km | 9.2秒 | 287.7m | 2127.7m | 107.7m手前 |
120km | 8.0秒 | 244.4m | 2084.4m | 64.4m手前 |
115km | 6.8秒 | 202.8m | 2042.8m | 22.8m手前 |
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100km/h | 4.2km | 130km | 9.2秒 | 300.4m | 2140.4m | 120.4m手前 |
125km | 8.0秒 | 255.5m | 2095.5m | 75.5m手前 |
120km | 6.8秒 | 212.2m | 2052.2m | 32.2m手前 |
115km | 5.6秒 | 170.6m | 2010.6m | - 9.4m(立体交差の下) |
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105km/h | 4.2km | 120km | 5.6秒 | 178.3m | 2018.3m | - 1.7m(立体交差の下) |
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備考 |
脱線地点 | 架線柱42号柱のある上り1840m地点と仮定した |
最終速度 | 脱線地点を通過する際の速度 |
減速度 | 4.2km/h/s(1秒ごとに速度が時速4.2km/秒速1.167mずつ低下する) |
進入速度 | ブレーキ開始地点での速度 |
制動時間 | ブレーキ開始速度から70.0kmまでに速度が下がるまでの減速時間、空走2秒含む |
制動距離 | ブレーキ開始地点から速度制限標識までの距離、空走距離含む |
制動地点 | 脱線地点を最終速度で通過する際の制動開始地点 |
座標 | 尼崎駅起点の距離、事故調査報告書 経過報告に対応 |
立体交差 | 2020.0m地点(一般道東行低速車線の北側付近)を立体交差入口とした |
名神立体交差の95m手前で非常ブレーキを掛ければ時速90キロまで減速できた! †
- 120km/hから90km/hまで非常ブレーキで減速するには何メートル必要か?
上記の表のとおり、207系では120km/hで走行中の時に、非常ブレーキを掛け始めてから90km/hまで、275.0m(9.1秒)で減速出来ることになります。このうち2.0秒/66.7mは空走時間/距離で、実質的には残りの7.1秒/208.3mで減速できる計算になります。
- 確実に90km/hまで減速できるブレーキポイントは何処か?
脱線地点を架線柱42号柱のある上り1840m地点と仮定すると、その275.0m手前とは2115m地点となります。上り2115m地点とは何処でしょうか?
前記のとおり、航空写真から推測すると歩道橋を除く立体交差(一般自動車道路)の北側は約2020mにあると思われ、これを元に算出すると2115m地点とは立体交差の95m手前であることになります。よって、次の結論が出ます。
『列車の速度を時速120キロと仮定すると、名神高速道路との立体交差(一般自動車道路)の95m手前の地点、立体交差の下をくぐる2.9秒前に減速度4.2km/h/sの非常ブレーキを掛け始めていれば、架線柱42号柱のある上り1840m地点では時速90キロまで減速できた。』
- その距離僅か95m、名神立体交差の目前でなぜブレーキを掛けなかった?
207系の全長は一両20mですので、95m手前とは事故車両の5両分にも満たない距離です。名神高速道路をハッキリと視認出来るこの地点でブレーキを掛け始めていれば、脱線地点までに90km/h以下まで減速出来た筈です。仮に列車の速度が多少速く脱線地点が多少手前であったとしても、この地点で非常ブレーキを掛け始めていれば脱線転覆を免れた確率はかなり高かったと推測されます。
この地点でなおブレーキを掛けなかったことは、運転士が急いでいたというだけでは説明がつかないと思われます。
- 立体交差の真下でも助かった?
また表のとおり、仮に立体交差入口(一般自動車道路)の真下付近(2018.3m地点)で非常ブレーキを掛け始めたとしても、120km/hから105km/hまで減速できます。最近では脱線時の速度は115km/h以上だったのではないかと報じられており、微妙な速度ですが、或いは脱線を免れ得たかも知れません。
制動地点推定図 †
制動地点推定図
- 脱線地点を架線柱42号柱のある上り1814m地点と仮定した推定図です。
- 減速度を一定(グラフに表わすと直線になる)とした簡易算出です。
- ブレーキを掛け始めてからの空走距離は、空走時間を2秒として計算に入れてあります。
- 惰行や曲線通過に伴なう自然減速、及び勾配については考慮していません。
- 120km/hを超えるものについては、規定の減速度(常用ブレーキ3.5km/h/s、非常ブレーキ4.2km/h/s)を維持出来ない可能性があるため、減速距離が伸びる可能性があります。
- 名神高速から北の距離表示(青白/赤白の表示バー)は正確ではありません。あくまで目安と捉えて下さい。
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